今川了俊是什么意思(中文簡(jiǎn)介)
今川貞世,鐮倉幕府后期至南北朝室町幕府前期武將。官至左京亮、伊予守。被幕府相繼任命為遠(yuǎn)江、駿河守護(hù),九州探題等職。赴任九州探題時(shí)又身兼?zhèn)浜蟆彩|、筑前、筑后、豐前、肥前、肥后、日向、大隅、薩摩等地守護(hù),權(quán)傾朝野。平定九州叛亂,并穩(wěn)固治安,內(nèi)外交好。后在政治斗爭(zhēng)中下臺(tái),其后潛心文學(xué),愛好和歌。著作《難太平記》等,法名了俊(りょうしゅん)。后人多稱其今川了俊。
今川了俊是什么意思(日文簡(jiǎn)介)
1326-? 南北朝-室町時(shí)代の武將。
嘉暦(かりゃく)元年生まれ。今川範(fàn)國の子。室町幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)をつとめ,將軍足利義詮(よしあきら)の死とともに出家。応安3=建徳元年九州探題に任じられ同地の支配に成功。応永2年職をとかれ,駿河(するが)(靜岡県)半國守護(hù)となった。和歌を冷泉(れいぜい)為秀にまなび,歌人としても知られた。応永19-25年ごろ死去。名は貞世(さだよ)。著作に「難太平記」「今川狀」「二言抄」など。
【格言など】衆(zhòng)人の愛敬無くしては,諸道の成就難し(家訓(xùn))
嘉暦(かりゃく)元年生まれ。今川範(fàn)國の子。室町幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)をつとめ,將軍足利義詮(よしあきら)の死とともに出家。応安3=建徳元年九州探題に任じられ同地の支配に成功。応永2年職をとかれ,駿河(するが)(靜岡県)半國守護(hù)となった。和歌を冷泉(れいぜい)為秀にまなび,歌人としても知られた。応永19-25年ごろ死去。名は貞世(さだよ)。著作に「難太平記」「今川狀」「二言抄」など。
【格言など】衆(zhòng)人の愛敬無くしては,諸道の成就難し(家訓(xùn))
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