光格天皇是什么意思(中文簡介)
光格天皇(1771年-1840年),閑院宮典仁親王第六皇子,母親為巖室磐代。諱師仁,后來改為兼仁。年幼時便寄養在圣護院宮忠譽入道親王家,準備在長大以后成為圣護院住持。但是因為后桃園天皇突然過世,只生有尚在襁褓的欣子內親王而已,于是便迎師仁親王做后桃園天皇的養子,等欣子內親王成年后做其皇后。天皇在1817年時,讓位給惠仁親王,并于1840年過世,其謚號「光格」是恢復了自光孝天皇以來近千年沒有使用的漢風謚號,葬于后月輪陵。
光格天皇是什么意思(日文簡介)
1771-1840 江戸時代中期-後期,第119代天皇。在位1780*-1817。
明和8年8月15日生まれ。閑院宮典仁(かんいんのみや-すけひと)親王の第6王子。母は大江磐代(いわしろ)。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊號をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊號一件)。和歌や音楽をよくした。天保(てんぽう)11年11月19日死去。70歳。死後,村上天皇のとき以來875年ぶりに天皇號がおくられた(63代から118代は院號)。墓所は後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)(京都市東山區)。幼稱は祐(さちの)宮。諱(いみな)は師仁(もろひと),兼仁(ともひと)。歌集に「光格天皇御詠草」,日記に「光格院日記案」。
【格言など】よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の國さかえつつ(內裏和歌御會)
明和8年8月15日生まれ。閑院宮典仁(かんいんのみや-すけひと)親王の第6王子。母は大江磐代(いわしろ)。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊號をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊號一件)。和歌や音楽をよくした。天保(てんぽう)11年11月19日死去。70歳。死後,村上天皇のとき以來875年ぶりに天皇號がおくられた(63代から118代は院號)。墓所は後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)(京都市東山區)。幼稱は祐(さちの)宮。諱(いみな)は師仁(もろひと),兼仁(ともひと)。歌集に「光格天皇御詠草」,日記に「光格院日記案」。
【格言など】よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の國さかえつつ(內裏和歌御會)
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