洞院公賢是什么意思(中文簡介)
洞院公賢(1291~1360):鐮倉末至南北朝時代的公卿。通稱中園相國。父為左大臣洞院實泰,母為權中納言小倉公雄之女季子。出生年即敘爵,歷任侍從、近衛少將、辯官、參議、權中納言、權大納言、大納言,兼任過左兵衛督、左右衛門督、春宮大夫、右近衛大將等。元德二年(1330),升內大臣,次年辭官。後醍醐天皇自隱岐還京後的正慶二·元弘三年(1333)六月,還任,但翌年又因病辭職。建武二年(1335),右大臣。南北朝分裂後滯留京都,康永二·興國四年(1343),左大臣。貞和四·正平三年(1348)官至太政大臣。學識深厚,頗孚名望,文和二·正平八年(1353)南朝壓制京都之際也以其為太政大臣。延文四·正平十四年(1359)出家,法名空元。翌年歿,七十歲。著有《皇太歷》、《歷代最要抄》,增補《拾芥抄》,其日記《園太歷》是重要的史料。
洞院公賢是什么意思(日文簡介)
1291-1360 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)4年8月13日生まれ。洞院実泰(さねやす)の長男。母は小倉公雄(きんお)の娘。建武(けんむ)の新政で右大臣,南北朝分裂後は北朝の光厳上皇につかえ,太政(だいじょう)大臣となる。正平(しょうへい)一統につくすなど南朝の信頼もうけた。有職(ゆうそく)家としても知られる。従一位。中園(なかぞの)入道相國と稱された。延文5=正平15年4月6日死去。70歳。著作に「皇代暦」,編著に「拾芥(しゅうがい)抄」。日記に「園太暦(えんたいりゃく)」。
【格言など】近來武士の所存皆かくのごとし。資をもって,その恥に替えんと欲するか(「園太暦」)
正応(しょうおう)4年8月13日生まれ。洞院実泰(さねやす)の長男。母は小倉公雄(きんお)の娘。建武(けんむ)の新政で右大臣,南北朝分裂後は北朝の光厳上皇につかえ,太政(だいじょう)大臣となる。正平(しょうへい)一統につくすなど南朝の信頼もうけた。有職(ゆうそく)家としても知られる。従一位。中園(なかぞの)入道相國と稱された。延文5=正平15年4月6日死去。70歳。著作に「皇代暦」,編著に「拾芥(しゅうがい)抄」。日記に「園太暦(えんたいりゃく)」。
【格言など】近來武士の所存皆かくのごとし。資をもって,その恥に替えんと欲するか(「園太暦」)
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