藤原俊成是什么意思(中文簡介)
藤原俊成(ふじわら の としなり Fujiwara no Toshinari ),[1114-1204],藤原道長的玄孫,藤原俊忠之子。平安時代后期鐮倉時代初期的歌人。按照"有職読み"讀作「しゅんぜい」。因為幼年被藤原顯賴收養,所以名字是顯廣。后來改名了。晚年出家后法名為"釋阿"。據了解是《千載和歌集》的編者之一。平安末期歌壇"幽玄"之風的提倡者,作品風格綺麗溫婉。
藤原俊成是什么意思(日文簡介)
1114-1204 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
永久2年生まれ。藤原俊忠の3男。母は藤原敦家(あついえ)の娘。正三位,皇太后宮大夫。五條三位とよばれる。藤原基俊(もととし)に歌學をまなび,源俊頼に私淑。幽玄美をとなえ,子の定家ら「新古今和歌集」の歌人をそだてた。「千載和歌集」の撰者で,歌は勅撰集に四百余首はいっている。元久元年11月30日死去。91歳。初名は顕広。法名は釈阿。家集に「長秋詠藻」,歌論書に「古來風體抄」など。
【格言など】世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奧にも鹿ぞ鳴くなる(「小倉百人一首」)
永久2年生まれ。藤原俊忠の3男。母は藤原敦家(あついえ)の娘。正三位,皇太后宮大夫。五條三位とよばれる。藤原基俊(もととし)に歌學をまなび,源俊頼に私淑。幽玄美をとなえ,子の定家ら「新古今和歌集」の歌人をそだてた。「千載和歌集」の撰者で,歌は勅撰集に四百余首はいっている。元久元年11月30日死去。91歳。初名は顕広。法名は釈阿。家集に「長秋詠藻」,歌論書に「古來風體抄」など。
【格言など】世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奧にも鹿ぞ鳴くなる(「小倉百人一首」)
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